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12.レンズ縮小計画14.旅行用カメラ


私が「散歩」と言うとき、それは一般的な散歩の意味ではありません。すなわち、趣のある町並みをぶらぶらと歩き、ぽつぽつと気になる画角を写真に撮るという私の趣味を、既存の語である「散歩」をあてて表現しているのです。ですから、ヴォキャブラリーの豊富な人にとっては、すごくまずい表現かも知れません。

しかし、私の場合、撮影のために歩いているわけでないことも確かで、どちらかというと、歩くことの方にウェイトがあると思います。例えば、歩いていて面白くない町だけど写真は上手く撮れた場合と、歩いていてすごく楽しい町だったけど写真はダメだった場合を想定してみると、私にとっては後者の方が楽しいと感じます。そんなわけで「散歩」というのがいいんじゃないかと思っています。


ただ、私が「趣味は写真です」と言い切れない理由もこのあたりにあります。写真を撮るのは好きですが、よい写真を撮るために邁進しているわけでもなく、ただボォっと「いい写真が撮れたらいいなあ」とひとりで思っているだけですし、上述のように町を歩いて楽しい方が好きなわけですから、すっぱりと「趣味は写真」と言ってしまうのはちょっと。私としては「趣味は『散歩』です」と言いたいのだけれど、この「散歩」は一般的な散歩とは違う、説明を要する使い方ですから、そう言うのもまたちょっと無理がある。まあ、些細なことですけど。


ところで、私にとっての「散歩」はひとつのイヴェントで、「今日は『散歩』にでも行くか」とふと思い立って出かけることはまずありません。少なくとも前日までには目的地や乗る電車の時間、持っていくカメラとレンズ、そしてフィルムまで決めて、もし初めて行く町であれば地図も用意しておいてから寝ます。もちろん、電車の時間から逆算して起きる時間も決めてあります。

そうして朝起きてみると、非常に眠たくて何か「散歩」なんてしたくない、と思うときがたまにあります。そういう場合は行きません。仕事じゃないので、ちょっとでも「行きたくない」と思ったら行かない。経験的にそういう気持ちで行ったときの「散歩」は全然楽しくないのです。歩いていて楽しくないし、写真のできもよくない。「散歩」が、ただ黙々と歩いて半ば義務的にシャッターを押すだけの作業になり下がるのです。こんなのは電車賃と現像代と時間の無駄です。

やはり気持ちよく目が覚めて、「今日の町はどんなところだろう。どんな写真が撮れるだろう」という期待があると、目的地に着いてからも違います。そうした精神的高揚感を起床時から持続したまま「散歩」できると、その町並みはさらに輝きを増し、写真を撮るペースは自然と上がります。歩いていて楽しくて仕方ない。そして、写真の出来もいいんですよね、そういうときは。とはいえ、少しでも障害があったりすると、高揚感は削がれてしまいますから、難しいところです。ただ、最近はわりと理想的な散歩ができていると思います。あるいは障害に対して寛容になったのかも知れません。


その障害のうちで最大のものが天候です。歩くのも写真を撮るのも天候次第という部分が多いですから。暑くも寒くもなく、空はとびきり高く青く、多少は雲もあって、風はおだやかでさわやかな空気、というのが当然ながらベストなんですけど、こういう天候の日に「散歩」できることなんて、そうそうありません。年に3回あればいい方です。困ったことに私は花粉症なので、春先の気持ちいい陽気のときに外出するとひどいことになるので、さらにベストの天候にめぐり合う可能性は低くなります。

天候というのは本当にどうしようもなくて、上記の精神的な部分については、ある程度自分のコントロール下にありますが、これは本当に気候変動に任せるしかありません。

そのせいで、「散歩」を趣味とするようになってからは本当に天気が気になります。それにひとくちに「晴」と言ってもいろいろあります。気象学的な「晴」の定義はよく知りませんが、私にとっての「晴」は、空がくっきりと青いことが条件です。中には水色っぽい、はっきりしない青空の場合がありますが、あれは「晴」とは言えません。写真を撮っても、あまり綺麗ではないからです。もちろん、雨の日や曇の日の写真にもよさはあると思いますが、私はコントラストの高い晴れの日の写真が好きなので、くっきりと晴れた日に「散歩」をしたいと思い、天気予報はこまめにチェックしているのですが、あくまで予想ですから、そうそう当たってくれません。

そのせいで、素晴らしい天候の日に散歩できたときの精神的な高揚感というのは、ちょっとクセになってやめられないくらいのものなんですけどね。


私としては、足腰が立たなくなるまで、あるいは視力が弱ってMF一眼レフでのピント合わせが不可能になるまで、「散歩」は続けたいと思っています。


2003年12月6日