フィルムで写真を撮り始めたのは、2001年5月3日のことです。
甲山近くの北山貯水池と鷲林寺に行きました。レンズはSMC PENTAX-M 28mm F2.8、フィルムはFUJICOLOR SUPERIA 400の24EX。覚えているわけではなく、撮影した日、場所、使ったカメラとレンズをリスト化していました。
おそらく、最初からリストを作成していたわけではなかったようです。途中でリストにすることを思いつき、遡って埋めていったように思います。

PENTAX MX、SMC PENTAX-M 28mm F2.8
FUJICOLOR SUPERIA 400
それから4年半の2005年11月5日でリストは終わっています。日記や撮影したデータを見ると、2004年6月に購入したIXY DIGITAL 300aを毎日持ち歩いていたようです。日常的な通学路や、出かけた折の写真など、たくさん撮影しています。その後もコンパクトデジカメでは撮影を続けています。

PENTAX MX、SMC PENTAX-M 28mm F2.8
FUJICOLOR SUPERIA 400
ただ、2007年1月1日の日記によると、2006年は2001年以降最も低調で、被写体に対する違和感が原因だろう、とのことです。また、2008年1月1日の日記に2007年は写真を撮る時間的、精神的な余裕がなかったのが悔やまれる、という記述が見えます。

PENTAX MX、SMC PENTAX-M 28mm F2.8
FUJICOLOR SUPERIA 400
写真に対するモチベーションはあるけれど、何を撮るべきか分からなくなり、次第に仕事に忙殺され、写真を撮れなくなった、という流れだったようです。

PENTAX MX、SMC PENTAX-M 28mm F2.8
FUJICOLOR SUPERIA 400
2008年5月にEOS 30Dを購入してからは、その画質と便利さに気を良くして、少し撮影頻度が上がったような印象を日記からは受けます。

PENTAX MX、SMC PENTAX-M 28mm F2.8
FUJICOLOR SUPERIA 400
その後、転職して結婚し、妻とは車でよく出かけていました。そのときEOS 30Dとその後手に入れたK10Dを持って行っていたと思いますが、今ほど写真を撮りたい気持ちは強くなく、ポツポツ撮る程度だったと思います。
それが2017年末にSONY NEX-6を手に入れたことで、第2のカメラ・写真ブームが到来します。最初は子どもたちと出かけるときに、手持ちの古いレンズを付けて撮影する程度でした。写真を撮るのは楽しいなあ、とふたたび実感し、写真映えするところに行きたい気持ちが強まりはじめました。
そしてフィルムで写真を撮ることを再開したのが2021年9月。マイクロフォーサーズに移行し、NEX-6で使っていた古いレンズが画角的に使いにくくなり、使用頻度が下がったのを残念に感じていました。その流れで、実家の防湿庫に置いたままにしていたNikomat FTNをメンテナンスする決心をしました。
この時代にフィルムで写真を撮るなら、といろいろ考えてモノクロフィルムを使うことにしました。できるだけ撮影結果を確認したかったので、車で20分くらいの距離にあるカメラのキタムラで即日現像できるILFORD XP2 SUPER 400を使うことにしました。
写真を撮りたいというよりは、レンズとカメラを使いたいから撮る。まあ、そのスタンスがよかったのか、再開してから4年半が経ち、第1次カメラ・写真ブームと同じ期間になろうとしています。
意外と続いているなあ、というのが率直な気持ちです。2021年にはじめたときは、そんなに続かないかもな、と感じていました。眠っていたNikomat FTNをメンテナンスしたい気持ちが強くて、メンテナンスしたら写真を撮らないと結果は判断できないわけで、写真を撮るなら何か新たな目論見が欲しいな、ということで行き着いたのがモノクロ写真です。普通に考えるといろいろと論理に無理があります。まず第一に、フィルムで写真を撮る必要性がない。デジタルの方が安いし、手間もかからない。でも、フィルムカメラをメンテナンスしてもらうわけだから、フィルムで撮るしかない。そのための論理、という印象が強くて、まあ飽きたら飽きたで致し方なし、という考えでした。
結果から考えると、モノクロ=フィルムとカラー=デジタル、というバランスがよかったような気もします。どちらも善し悪しがあるので、どちらかだけだと、息が詰まるときがあります。でも、フィルムとデジタルの両方を撮ることで、息が詰まることもない。
また、古いカメラとレンズの魅力やフィルム特有の緊張感もよかった。デジタルの方が安いし手間もかかりませんが、経済性や簡便さだけが価値ではない。

あと、歳をとったせいか、理由について深く考えなくなったのもよかったかもしれません。若い頃の私は、なぜ、とか、なんのために、ということを考えがちでした。なぜ写真を撮るのか、とか、なぜ文章を書くのか、という問いは、文章のネタとしては面白いので、ちょこちょこブログでも公開していますが、実際問題として、そんなに大きなウェイトは占めていません。
2006年の日記に書いている「今までの被写体に対する違和感」というのも、おそらく「自分は何を撮りたいのか」「何を撮るべきなのか」みたなことを考えすぎた結果だと思います。カメラを持って街を歩き、「おっ」と思う画角を撮ればいいだけなのに。
写真を撮りたい、文章を書きたい。そういう欲求が自然発生しているんだな、という認識だけで充分だし、その欲求をそぐような考えはしない方がいい。そういう欲求が発生するのには、何か理由があるんだろう、という程度でいい。そしてたぶん、その理由をいくら考えても、実際のところは判らない。
話は変わりますが、感情や欲求に対する明晰で簡潔でわかりやすい説明は、だいたい間違っていると思った方がいいと思います。感情や欲求は様々な要因や動機が絡まり合った、何かぐちゃぐちゃとしたものから発生していて、捉えようもないし、もちろんひとくちでは言えない。そして、そういうものを捉えたり、ひとくちで言う努力をする必要もない。ぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃのままで置いておく。
日記にあった「被写体に対する違和感」というのが、具体的にどういう感覚であったのか、今となっては思い出せません。違和感は今でも感じています。今の違和感と当時の違和感が同じかはわかりませんが、私は何を撮っているんだろう、私が撮りたいものって何なのかな、というのが今の違和感です。前述の通り、そんなことは考えても意味がないんだけれど、考えてしまいます。でも、その先は突き詰めない。違和感は違和感のまま置いておく。
カメラを持って出かけると「何か」が私を動かし、レンズを向けてシャッターを切るに至ります。そういう風に写真を撮るのは楽しい。楽しければそれでいいんじゃないかな。
そしてまた、楽しくなければやめればいい。継続は力なり、といいますが、継続するのは何かを得たり達成するためであって、私は写真を撮ることで何かを得ようとか、達成しようとしていません。楽しいから撮るのであって、楽しくなれば撮らない。
どのカメラにどのレンズを付けて、どのフィルムを通して、どこに行こうか、と考えるのが、今はとても楽しい。そして、街を歩きながら写真を撮るのが楽しい。そんなわけで当分は続けると思います。もちろん、人生何があるかわからないので、たぶん。






