文章を書くことについて

きっかけも動機も全く記憶にないのだけれど、文章を書きはじめたのは、中学2年生の頃でした。叔父さんにワープロを借りて書き始めました。

どういうきっかけでワープロを借りることになったのか。まず文章を書きたい気持ちがあってワープロを貸してほしいと頼んだのか、ワープロという機械に興味があって借りみたので実用するべく書くしかないから書き始めたのか、今となっては定かではありません。理由はどうあれ、中学2年生のときから文章を書き始めました。それは確かです。そのあと、叔父さんにワープロを返し、自分用に買ってもらったくらいですから、相当に書きたい気持ちが強かったのだと思います。

30年経った今から考えると、たぶん書きたいものがあったというよりは、文章を書くこと自体が「確固たる自分をかたち作るための試み」だったんだろうな、と思います。中学受験をしたものの、あまり中学校に馴染めず、そしてまた勉強ができないこともあって、とても不安定でしんどい時期でした。そのしんどさは大学を出るまで、わりと長く続きました。その頃は文章をよく書いていたような気がします。

文章を書くのに先行、そして後には平行して、本もよく読んでいたように思います。父親が本好きで、祖父が床が抜けるのではないか、と心配するほどの本がありました。小説なども多かったように思いますが、私が好んで読んでいたのは村上春樹や伊丹十三のエッセイでした。特に伊丹十三が好きでした。その後は高校生の頃は中島らもとか、島田荘司、大学に入ると漱石や鴎外、太宰や芥川といった近代文学や、京極夏彦などを読むようになりますが、基本的にはエッセイとか旅行記の方が好きです。小説はちょっとしんどいところがあります。

小説というのは基本的に人とその生き様について物語を展開していくわけで、その中で多かれ少なかれ、直接的であれ比喩的であれ、「死」を取り扱う必要があります。小説を真剣に読んでいくと、その「死」が日常生活を侵食していく。それがしんどい。

文章を書くことを仕事にしたいと思ったことはないけれど、今でも書くことは好きでこうやってせっせとブログを書いています。

思えば30年ほど細々と文章を書いてきて、こんな程度のことしか書けないのか、という気はします。才能はあるところには溢れんばかりにあるし、ないところには全くない、ということでしょう。そしてまた、特に努力もせず、単に我流でだらだら書いているだけですから、この程度が関の山、とも言えるでしょう。文章で収益を上げる必要もないし、何か表現したいものがあるわけでもないし、とても個人的な、単なる日記のような駄文しか書かない、もしくは書けない。

文章を書くことの効能は、自分が興味・関心を持っていることについて、思っていること、感じたこと、考えたこと、調べたことなどが頭の中で浮遊して混濁している状態から、整理して定着させて、見通しをよくすることだと思います。そうすれば次の段階に行ける。「次の段階に行く」というのは上のステージに行くということではなくて、次のことを考える、考えることをやめる、という程度の意味です。

家庭のことや仕事のことを文章にしないのは、ぐるぐると考えをめぐらせる対象でないからじゃないかと思います。家庭や仕事のことはもし問題があれば解決するために相談して決めて進めるしかない。写真とかカメラとか、そんな趣味のことしか文章にしない。

そしてまた、好きなことについてはいろいろと考えたい、というところもあります。考えている時間が楽しい。次はどんなレンズを買おうかな、とか、今度の旅行にはどのカメラとレンズを持っていこうかな、というのは、正解もなければ、間違いもないし、もっと言えば誰も興味がない。でも、私にとっては、とても重要で、とても興味深いテーマです。

昔に書いた文章を読み返すと、とても面白い。そんなこともあったなあ、とか、あのときにはこんなことを考えていたのか、とか、自分の書いた文章だけれど、読んでいる現在の自分とはちょっとしたズレがあって、それが興味深い。でも、それは私が文章を書く理由ではないかな。副次的な楽しみというか。

なぜ文章を書くのだろう、と考えを巡らせるのは、おそらく無駄なんだろうと思います。私の中にある何かが、文章を書くことを欲している。それが何で、なぜ文章なのか、というのを考えてみたことはありますが、分かったところでどうにもならない。文章を書くことに変わりはありません。

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