レチナとカメラと写真のこと

ここで言うレチナとは、Kodak Retina Iaのことです。長いので、以下レチナ。

購入したときに書いた文章は上のリンクを見ていただくとして、2003年に購入した1951年製の古いカメラです。レチナというカメラは1934年に初代が発売され、それに合わせて135フィルム(35mmフィルムをパトローネに詰めたパッケージのこと)も発売したので、要するに135とはとても縁深いカメラです。

久しぶりに実家の防湿庫から取り出したレチナと、その存在に触発されてカメラのこと、写真のことについて、少し書いてみたいと思います。

Retina Ia(閉じた状態)

レチナを手に入れたのは、2003年4月16日ですから、もう17年以上も前のことです。記録によると4回くらいしか使っていません。もったいない話です。

何でレチナを手に入れたかはよく覚えていません。ちゃんとしたコンパクトカメラが欲しい、という気持ちがあったことは確かですし、赤瀬川原平の本を読んで、蛇腹式の古いカメラが欲しくなったような記憶もあります。

露出計なし、距離計なしのシンプルな構造ですが、フィルム巻き上げとシャッターチャージをワンアクションで可能にしたレバーは現代的です。

蛇腹式なので、閉じるととても薄くてコンパクトです。でも、手にすると、中身がぎっしりと詰まったような、ずっしりとした重量感があります。

カバーを開けてレンズボードを起こすと蛇腹が伸びて、カメラらしい形状になります。ほどよい重量感が好きで、つい手に持ってしまいます。そして、意味もなく開けたり閉めたりして。レンズボードが固定されるときのガチンという感触がとてもいい。ちゃんと固定されていますよ、というのが感触からも伝わってくる。信頼感の高さ。

当時の普及機ではありますが、他のカメラと比較すれば安かった、というだけの話で、作りはとてもしっかりとしています。手にする度に「いいカメラだな」と思います。

シャッターチャージは一度故障して修理してもらった経緯があるので、慎重に使っています。巻き上げレバーをぐっと最後までまわして、カチッとなるまで少し保持しておくのがいいようです。

Retina Ia(開いた状態)

レンズはシュナイダー・クロイツナッハ製のクセナー50mm F3.5。シャッターはコンパーラピッド。1/500まで切れるので、まあ不足はないだろうと思います。

ピントは目測。絞り込んで、被写界深度をかせぐのが安全でしょう。接写とか、ボケとかは一眼レフに任せておけばいい。単体距離計というものもありますが、かさばるので、ピントをきちっと合わせたい場合は、距離計付きのレチナを選ばれる方が賢明かと思います。

レチナを購入したときにも感じたことですが、フィルム送り機構、シャッター、レンズがきちんと動けば、写真は撮れる。

機械ものは何でもそうですが、より便利に、より高性能に、そしてより低価格で、という方向に進んでいくものです。

コンピューターなどは速ければ速いに越したことはないと考えています。それはコンピューターが道具だからでしょう。最新である必要はないけれど、私がしたいことをスムーズに処理できるだけの性能が必要です。質感的に好きだからといって、遅いコンピューターを使おうとは思いません。Lightroomの現像で、じっと待つなんて許せない。

道具として捉えるならば、カメラに関しても同じことでしょう。しかし、私はカメラを単なる道具としては考えていません。写真が好きでカメラを使うというよりは、カメラが好きで使ってみたいから写真を撮っているところがあります。

写真を撮るのはとても簡単です。スマートフォンのカメラアプリを起動して被写体に向けて、画面をタップすればいい。写真を撮りたい人にとって「どんなカメラで」撮るかなんて、ほとんど興味がないことなのだろう、と予想します。撮りたい写真が撮れるカメラがいいカメラです。

目的があり、その目的を達するための道具がある。大阪から東京に行くとして、どういう手段で行くかは検討するでしょう。新幹線か飛行機か。でも、多くの人はどういう機種で行くか(N700S、エアバスA350)は気にしません。できるだけ早く、またはできるだけ安く行ければそれでいい。

でも私は「どんなカメラで」撮るかを問題にしています。レチナで撮っても、Nikon Fで撮っても、EOS 5D MarkIIで撮っても、撮っている写真に大差はありません。スマートフォンでも写真を撮りますが、それだけでは寂しい。もし最新のミラーレスと同等の写真が撮れるスマートフォンを持っていたとしても、私はカメラを使うでしょう。

カメラが好き、というのはそういうことです。

でも、カメラが好きで写真には興味がない、というのでもない。「何で写真を撮るのかな」と考えてみるに、カメラやレンズを使いたい気持ちは確実にあります。そして、カメラを持って被写体を探しながらうろうろと歩くのは楽しい。

カメラやレンズを続けて買ったときなどは「すべての写真は試し撮りである」と自虐的に考えることもありますが、それはちょっと違うな、と思っています。試し撮りだからといって、手近なものを撮ってお茶を濁すようなことはしたくない、という気持ちがあります。試し撮りならば、毎回同じ場所で撮るのが最適でしょう。

15年前にも同じようなことを考えて書いた文章があります。読み返してみて、これもちょっと違うな、と思っています。

気に入ったカメラを持って「撮りたいもの」を見つけてはシャッターを切っている。「撮りたいもの」とは何か。

子どもの写真などは、とても判りやすい。可愛いシーン、頑張っているシーン、旅先のシーンを写真に残したい。スマホでもいいのだれど、カメラが好きだから、カメラで撮っているだけです。

では、それ以外は?

過去に撮った写真を見ていて、花の写真ってそんなに撮りたいだろうか、鳥の写真は本当に撮りたいものだろうか、と突き詰めていくと、撮れるカメラとレンズがあるから撮っている、という面が強いような気がします。マクロレンズを買ったから花を撮り、望遠レンズを買ったから鳥を撮り、広角レンズを買ったから風景を撮る。まあ、理由はどうあれ、試してみて合っていれば続ければいい。花の写真は好きで、梅や桜、コスモスなどを季節ごとに撮りたいと思いますが、鳥はあんまり続きませんでした。

町並みの写真は、昔から撮っています。これは私が純粋に撮りたいと思う被写体です。

「変化しないようで、常に移ろいゆく町並みの儚さの中に美しさを感じる」とか理由は何とでも後付けできるわけですが、そこにある「撮りたいもの」に突き動かされて、写真を撮りにでかけています。

そんなわけで、今まで通り、ぼちぼち写真を撮っていきたいと思っています。

ファイル・ロケーション: 雑文