撮りたいから撮る

2001年8月13日 丹波篠山 FUJICOLOR SUPERIA 400

私が見ているのは、単に「私が見たもの」であって、それは現実の一部ではあるのだろうとは思うけれど、眼前にある事象の全てではない。

例えば、妻と一緒に車に乗っていて、助手席の妻が「さっきの芝犬可愛いかったね」と言ったとき、私は全然気づいていなかった。また、いつも通る道で「こんなお店があったんだ」と私が呟くと妻曰く「ずっと前からあるよ」と。事程左様に、人は見たいもの、見るべきと思っているものしか見ていない、あるいは見られない。

というようなことを書きながら、以前似たようなことを書いたな、といろいろ探してみたところ、「フィルムを通せば」にありました。

「写真について少し」というタイトルで、2003年9月13日のタイムスタンプがあります。自分で書いた文章ながら、なるほどそうだよな、と納得したので引用しておきます。

2001年5月13日 天野山金剛寺 FUJICOLOR SUPERIA 400

写真とは「真を写す」ものではありません。私の写真に対する考えは、まずここから始まります。

我々は3次元の世界に生きていますし、そして時間という連続性の中にあります。対して写真とは、それを2次元に貼り付け、連続性から切り離し、シャッター速度の分だけフィルムに定着させたものです。

しかも、それはレンズを通したものです。レンズはだいたいが人間の目とは違うものです。私は50mmが好きなのですが、その対角線画角は約46度です。対して我々は、固定された角度で対象を見てはいません。眼球の焦点距離や画角は求められるでしょうが、広大な風景は目を動かすことですごく広い視野で見ることが可能ですし、遠くのものを見る際にはその対象に集中しているために、感覚としてはすごく大きく見ることができます。だから、50mmレンズにしても、魚眼レンズにしても、望遠レンズにしても、人間の目とは全然違うものなのです。

すなわち、写真というのは「ある種の見方、切り口」でしかありません。私がその風景をどのような角度から、どのようなレンズで、どの程度のシャッター速度と絞りで撮るかによって、その風景の見え方は大きく違ってきます。そういう写真が「真」であるハズがないでしょ?

「でしかない」と書きましたが、しかし、だからこそ写真は面白いのだと思います。それはたぶん、私が肉眼と脳を介して見ているこの世界も、「ある種の見方」でしかないからです。わたくしイケガワタケヒコの見方と、あなたの見方とは全然違うでしょう。「現実」という言葉がありますが、「現実」とは一体何でしょう。私が認識している「現実」と、あなたの「現実」とは同じものでしょうか。同じ日本人ですから、ある程度の共通性はあるかも知れませんが、細部は違うでしょうね。

要するにごく個人的な「ある種の見方」によって捉えた像こそが、実は我々が言うところの「現実」なのです。誰も「真」など見ていないのです。見ることができないのです。

生きる人の数だけ「現実」があります。そして、それをカメラという機械を使って、撮影者の見ている世界をフィルムなりメモリーなりに定着させようという試みが写真を撮るという行為なのだと思います。私にとって、この行為は大変に魅力的です。

もし「真」というのが、「ごく個人的な『ある種の見方』によって捉えた像」を指すとすれば、「写真とは『真』を写すものである」と言うことは可能でしょう。ただ、それはあまりにも傲慢で、「写真とは『真』を写そうとする試みである」という程度にした方がいいと、私などは思います。

そういうわけで、私は私の見ている「現実」の風景を切り取ります。アマチュアですから、自らの見方と、それによって生み出される写真が多くの人に受け入れられ、富を生むか否かを懸念する必要はありません。しかし、それは自己満足的であってはいけないと思います。大切なのは見方を確立することです。文章における文体と同じで、美文である必要はなくて、確固たるスタイルのあるなしが問題なのだと思います。

こういうことを考えながら、私は最近、写真を撮っています。

22歳の私は、いろいろと考えていたんだなあ。44歳の私は「理由など不要。撮りたいから撮る」と思っているだけです。見方は確立されたでしょうか。否。確固たるスタイルはあるでしょうか。否。好きなことを好きなようにしているだけでは、その域に達することは叶わなかったようです。

しかし、と考えます。「確固たるスタイル」は必要でしょうか。私の死後、もし子や孫が私の写真を見たときに通底する「確固たるスタイル」を感じてくれるよりも、1枚でも「いいな」と思ってくれる方が嬉しい。でも、それが目的ではない。私は「撮りたいから撮っている」だけ。

私の場合、歳を重ねるに従って、論理とか大義名分みたいなものはどうでもよくなっていく気がします。したいことをしたいし、したくないことはしたくない。その「したいこと」を探すのには余念がないし、「したくないこと」をせずにすませる方法の追求も真剣です。「なぜしたいか」を突き詰めて考えたり、「こうするべき」みたいに考えるのは無駄とはいわないにしても、興味がない。

2005年3月14日 富田林寺内町から石川に降りる坂 FUJICHROME TREBI 100C

確実なことは「撮りたい」という気持ちのみ。この気持ちが永続するとは限らないけれど、少なくとも今、撮りたいと思っている。撮りたいから撮る。それでいい。

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