今井町は一向宗徒が建設した寺内町で、文献上には16世紀半ばに現れます。本願寺と織田信長が敵対して挙兵したとき、今井も守りを固め明智光秀の軍勢と対峙したそうですが、1575年に降伏し、何の咎めもなく「向後万事大坂同前」という扱いを受ける、すなわち自治を認められます。
太閤検地のころには現在の町域が成立しており、すでに人口は現在を凌ぐほどであったようです。江戸時代に入ると天領や、近隣の藩の藩領になったりしますが、明治に至るまで自治都市としての地位を保っていたといいます。
その今井を支えたのが商業で、米市場を中心としながら、さまざまな品物を扱い、17世紀半ばには銀札の発行も許され、そこから18世紀初頭に至るまでの最盛期には、蓄えた資金力で大名に貸し付けを行うものも出るようになります。
18世紀に入って銀札の発行が禁止されたことによって町は衰退しはじめ、活気は失われていったようです。しかし、最盛期の蓄えによって、今井は昭和31年に橿原市となるまで自治体としての地位を守っていられたほどであったといいますから、その繁栄ぶりは今の今井町からちょっと想像できないものだったことでしょう。
町並みが注目されたのは、昭和30−32年にかけての東京大学の調査がきっかけで、それから昭和60年代にかけ、住民と行政が一体となった保全が行われました。結果、6割までが江戸時代までに作られた町屋という、素晴らしい町並みが現存しています。
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