ところで、吉野についてひとつ不思議だったことがあります。何ゆえ後醍醐天皇は吉野に逃げ延びたのか、ということです。一時期、吉野には南朝があったのです。更に勝手神社には頼朝に追われた義経も吉野に逃げていた、ということが書いてあります。
それにしてもなんで吉野みたいなところに逃げるんだろう、というのが、失礼ながらも率直な感想でした。京都からそんなに遠くないですし、参詣のための道も整備されているでしょうから、挙兵されたらすぐに攻め入られるんじゃないか、と思うのです。
実はこれも修験道と関係があるんです。修験道の霊場であった吉野山には数多くの寺院があり、皇室と結びついた僧兵、そして修験者が大きな勢力を持つ治外法権的な地域だったのです。彼らは山のことを知り尽くしているばかりか、体力もありますから、そういう人々を相手に吉野山へ攻め入るのは大変だったことは容易に想像できます。だから、後醍醐天皇も義経も吉野に逃げたわけですね。
このように信仰をあつめて、大きな勢力を持っていた吉野山も、明治時代の神仏分離、廃仏毀釈によって、神仏習合の典型とも言える修験道が徹底的に破壊されたことで、一気に力を失います。金峯山寺も一時期は神社になっていたそうです。
でも、桜で有名な現在の姿も、昔から桜を植えて保護してきた修験道の信者たちのおかげですから、単に私が知らなかっただけで、吉野と修験道とは切っても切れない関係にあるんでしょうね。
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