そういう郡山の成り立ちは、現在の城址を中心としたあたりを中心として豪族たちが勢力争いをしていたのが、戦国時代のことです。しかし、その勢力争いも筒井順慶という人が織田信長を背景として築城を始めることで終りを告げます。今日の規模になったのは豊臣時代に入ってからで、秀吉の弟の秀長が大和・和泉・紀伊の百万石におよぶ領地を治めることになったため、それに相応しい城を作ったようです(そのため秀長ゆかりのお寺や、お墓が残っています)。そしてこの時代に城下町の整備が進み、その当時の町名が今に残っています。
紺屋町もそのひとつで、要するに染物屋が集まった町です。ですから、道路の中央に掘割(LINK)という溝があります。これは染物をする際に使用する水を得るためのもので、町に独特の景観を与えています。ただ、掘割のために見た目より道幅が狭くなっているのでクルマなどの通行には不便そうで、写真を撮っていると警笛を鳴らされました。
後に豊臣氏が滅び、新たな城主が入りますが、関ヶ原の合戦、大坂夏の陣で城主が(調べていて嫌になるくらいに)何度も変わります。最終的には享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲府から郡山城主に任命され、6代を重ね明治維新を迎えます。
梅の花を撮った郡山八幡宮は町の中にある普通の神社なのですが、昔は郡山城を守る八幡宮として城主から保護されていたようです。もしかしたら当時は周りの商店街も全て境内だったのかも知れません。
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